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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

大久保利通関連

西郷入水に関する吉井友実の回想——西郷入水後の大久保利通について

前回、前々回に引き続いて西郷入水騒動と大久保利通について。今回はまず、小河一敏が筆録した吉井友実の回想を紹介したい。 吉井友実が語る入水後の西郷 西郷は16日の午後四時頃、人々に介抱されながら家に帰った。ただ眠るが如き状態で無言だったが、夜…

西郷隆盛と大久保利通の友情——入水当時について横目役谷村の証言

前回の記事で触れたように『大久保利通伝』や『甲東先生逸話』などでは、西郷の入水騒動を知った大久保利通が現場に急行したと叙述されている。 ところが 春山育次郎*1の記すところによれば、大久保あるいはその同志が現場に駆けつけた様子は書かれていない…

西郷入水前後の大久保利通

斉彬歿後の薩藩の形勢 安政5年7月16日、島津斉彬が没すると藩内の形勢は一変して、斉彬の事業に従事していたものたちは免職または転役となり、御小姓組はその大半が除かれる「俗論蜂起」の時代となった。いわゆる「順聖公崩れ」である。その影響で大久保…

大久保利通と西郷従道——西郷清子談

『甲東逸話』に西郷従道の夫人・清子氏の談話がある。清子氏によれば大久保利通と西郷従道の関係は次のとおりだったという。 西郷従道は大久保サンには実に容易ならぬ引立てを受け、可愛がられていました。わたくしが嫁入りしましたときなどでも、西郷の衣装…

大久保利通と天竜川の治水事業——金原明善の熱誠と甲東の果断

古くから「暴れ天竜」と恐れられていた天竜川は、嘉永3年から明治元年までの19年の間に堤が切れたことが5度もあった。なかでも明治元(慶応4)年の洪水は最も惨害を極め、沿岸の村落や耕地をのみこみ、人家一万余戸に被害をおよぼした。 そこで安間村*1…

西郷隆盛伝を編成しようとした大久保利通とそれを継紹した勝田孫弥『西郷隆盛伝』

大西郷挙兵の確報に接した大久保公は、「ああ、西郷は遂に壮士の為に過まられた」と深く歎息した。西南戦争後には「われと南洲との交情は、一朝一夕のことではない。然るに彼は賊名を負って空しく逝き、今や世人は、その精神のあったところを誤解しようとし…

渡辺国武の大久保利通観

無辺侠禅として知られる渡辺国武は、大久保公を追懐して次のように語っている。 大久保さんの公生涯は、二段落にわかれて居ると私は考える。幕府の末葉から全権副使として岩倉公と一緒に欧米巡回旅行をさるるまでが、第一段落で、この間の大久保さんの理想は…

大久保サンは専制主義の人ではない——伊藤博文談

前回の記事で、伊藤博文が「大久保公は専制主義の人ではない」と述べていたことに触れた。そこで今回は、『甲東逸話(勝田孫弥編)』『伊藤博文直話』などから、伊藤博文が語る立憲政治における大久保公の実像に迫りたい。 世間の大久保観に対する反論 伊藤…

陸奥宗光を宥した大久保利通の大度量

以前の記事で触れたように、西南戦争が勃発した頃、陸奥宗光は政府転覆を画策していた。陸奥の目的は、この擾乱に乗じて藩閥政治家を打倒し、立憲主義の木戸孝允をたて、進歩派の板垣、後藤とともに新政府を組織することにあった。そして標的は、藩閥政治家…

松方正義に死を勧めた大久保利通

明治2年頃、大久保公が松方正義の首を助けたと前回の記事で紹介したが、明治6年にはその松方正義に対して死を勧めている。一見すると正反対の態度であるが、どちらも大久保公の政治信条に反したものではなく、公自身がいかなる態度で政局に臨んでいたかが…

松方正義の首を助けた大久保利通

松方正義の述懐によれば、廃藩置県の建議書を大久保利通に見せたところ、「(薩人に)この書を見せるな、また決してこれを口にするなかれ、このことがわかると、あなたが廃藩置県を建議したというて、首を刎ねられるぞ」と注意されたという。 後年、この大久…

大久保利通と西園寺公望

「野に遺賢なし」とは東洋の政治哲学における理想である。大久保利通はこの理想を実現させるべく人材登用、人材養成に力を入れていた。明治元年、岩倉具視宛の書中で以下のように書いている。 公卿若年の御方三四名、諸藩より七八名、極めて御精選を以て、英…

山本権兵衛の記憶に強く刻まれた大久保利通の逸話

東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢し、海軍大臣として日露戦争を勝利に導いたことで知られる山本権兵衛。彼は維新前から俊英として知られ、大議論家でもあった。しかしそんな彼ですら、大久保の威厳には敵わなかったようである。高橋新吉はつぎのとおり述…

大隈重信が涙ながらに語った大久保の思い出――大隈と川路の仲を取りなしたことなど

今回紹介する逸話は『甲東逸話』に載せられているもので、明治14年大隈が辞職したとき、大隈邸に寓居していた西幸吉に語ったことだという。 大隈が辞職したことに驚いた西が「国家のために甚だ遺憾である」と述べたところ、大隈はつぎのように語りはじめた…

大久保利通と中江兆民

ルソーの『社会契約論(民約訳解)』を翻訳したことで知られている中江兆民(篤介)は、明治4年に政府留学生として渡仏している。 中江兆民が留学できたのは、大久保利通に海外で学問する熱意を訴えたからだった。 中江の熱意 土佐藩の足軽であった中江は、…

『冷血と温血』福地源一郎の大久保評

「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物である」 という福地の大久保評は、Wikipediaにも載っているので、よく知られているとおもう。しかし前述の文は大久保評の一部分でしかなく、その後に人間的な温かさについて触れていることはあまり知られてい…

大久保利通の生涯

大久保利通の生涯に関する記事のまとめ 1830年(天保元年)8月10日、大久保利世の長男として生まれる。生まれた場所は「高麗町」だというが、幼年のころに加治屋町に移住したことから誕生の記念碑も加治屋町に建てられたと『大久保利通伝』に書かれて…

島津斉彬の大度に感銘をうけた大久保利通

島津斉彬は、幕末随一の英君である。西郷隆盛が斉彬に薫陶をうけたことはよく知られている。大久保利通もまた斉彬の感銘をうけ、大人物となった一人だった。 島津斉彬の宏量大度 島津斉彬が薩摩藩主になったのは嘉永4年(1851)。斉彬が43歳、大久保…

島津斉彬を藩主とするために計画を練っていた大久保利通

前回、書いたとおり謹慎中の大久保は、表向きは固く門を閉ざしていたが、秘密裡に有志者と交流していた。彼は、君側の奸をのぞき、英明なる斉彬を藩主に立てようと暗躍していたのである。 <a href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/06/25/070000" data-mce-href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/06/25/070000">高崎くずれの頃の大久保利通の苦心 - 人物言行ログ</a> 精忠組の誕生 こ…

高崎くずれの頃の大久保利通の苦心

大久保利通が21歳(このころ正助と名乗っていた)のとき、父・大久保利世が「高崎くずれ(お由羅騒動)」に連座して、喜界島に遠島。そのため大久保家は閉門を命じられ、利通も記録所書役を免職している。 <a href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/06/20/100142" data-mce-href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/06/20/100142">大久保利通の父・大久保利世について - 人物言行</a>…

大久保利通の外祖父・皆吉鳳徳は日本初の西洋式帆船を建造した奇傑

大久保利通の母・ふく子の実家は、皆吉氏であり、代々有為の人物を輩出していた。なかでも利通の外祖父にあたる皆吉鳳徳(ほうとく)は、奇傑としてしられ、身体長大にしてあたかも力士を見るがごとく偉丈夫だった。(『大久保利通伝』) 伊呂波丸建造 医者…

大久保利通の父・大久保利世について

『大久保利通伝』によれば利通の父、大久保次右衛門利世(としよ:号は子老)は体格は大きいわけではないがかなりの肥満体で貫禄があった(意訳)、というように書かれている。 大久保利通は身長が高かく痩せていけれど、これは母に似たものらしい。 無学の…

禅を修業し胆力を鍛えた大久保利通『難来る、難能く我を鍛える』

吉井友実の叔父、無参禅師(むさんぜんじ)は、薩摩における有名な高徳の禅僧だった。士族を召し上げられて出家したと伝えられる。 大久保利世(利通の父)は、無参禅師について禅を学び、親しく交わっていた。こうした関係から、自然と大久保利通も参禅する…

松平春嶽の大久保利通、木戸孝允評

松平春嶽(まつだいら しゅんがく)は大久保利通、木戸孝允を以下のように評している。 大久保利通は古今未曾有の英雄と申すべし。威望凜々霜のごとく、徳望は自然に備えている。木戸、広沢の如き者にあらず、力量にいたっては世界第一と申すべし。余が大久…

前島密の江戸遷都論と大久保利通の果断

大久保は創案する人ではなく、すぐれた意見を採りいれて、それを実現に運ぶところに特徴があった。池辺三山はつぎのように書いている。 大久保には、自分独りで考えた方針主義というものは、どうにも見当たらない。尊王、討幕、開国進取、遷都、廃藩置県、西…

最善を得ざれば次善を取り、次善を得ざれば三善を取る――大阪遷都論にみる大久保利通の政治力

大久保利通の大坂遷都論は、大政奉還以上の衝激だったと佐々木克氏は語る。その衝激の大きさのために公卿の反発は大きく、廟議でも否決された。それでも大久保は屈しなかった。表面的に妥協しながらも強固な意志を貫き、臨機応変に対処し、目的としていたと…

明治六年の政変と大久保利通

林董が大久保利通を評して、「大久保は明治年間のみならず、日本の歴史中まさしく有数の政治家である」と語っていたことは以前の記事に書いた↓ &amp;lt;a href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/04/17/103000" data-mce-href="http://hikaze.hatena…

西南戦争のとき大久保の代理をつとめた前島密

近代郵政の父として知られる前島密(まえじま ひそか)は、西南戦争のときに大久保の代理をつとめて内務にはげみながら薩軍に勝つため苦心していた。『前島密―前島密自叙伝 』のなかから逸話を紹介する。 大久保の代理となる 明治十年二月某日、大久保の使い…

林董が語る西南戦争のときに見せた大久保利通の果断

林董(はやし ただす)は、西南戦争当時を回想して、大久保利通の偉大さを認知したのは反乱が勃発したときであったと語っている。 『後は昔の記 他―林董回顧録 』に収録されている「回顧録」「後は昔の記」の内容を整理して、大久保を日本史上有数の政治家と…

明治政府の第一人者大久保利通の勇気、責任感、熟慮断行

日本を統一して一丸とさせ、国を富ませて強くし、列強とならべても遜色ないまでに発展しえたのは大久保利通の維新の理念によるものだと徳富蘇峰は書いている。 その大久保利通は政治家として以下の三点が際立っていたという。 勇気が充実していたこと 責任観…