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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

『人物言行ログ』から『幕末維新備忘録』にブログタイトルを変更しました

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長い間更新できずにいましたが、訳あってブログタイトルを変更しました。

 

実は少し前から幕末維新に関する逸話を蒐集したサイトを作成していました。まだそちらのサイトは公開していませんが、幕末維新の逸話はそちらのサイトの方で公開することにして、はてなブログ(『幕末維新備忘録』)の方では史跡訪問や史料を読んだ私感などを中心としたブログにしようと考えています。

 

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それで史跡撮影用の一眼レフを購入したのですが(美しい画像を掲載されているブロガー様に影響されて)、考えていた以上に楽しくてサイト作成そっちのけで風景ばかり撮ってました笑。

まだまだ撮影に馴れないのでアドバイスなどいただければ幸いです。というわけで今後も『幕末維新備忘録』をよろしくお願い致します。

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薩英戦争の笑話(奈良原家に砲弾が当たった話など)——市来四郎談(史談会速記録)

生麦事件、またそれに引き続く薩英戦争によって薩摩藩は「攘夷の先鋒」や「攘夷のチャンピオン(芳即正氏の表現)」とみなされ、攘夷急進派からもてはやされたのであるがそれは実態のともなわないものであった。そうした藩内の情況については市来四郎が詳しく語っているので、前回と同じく『史談会速記録』から紹介したい。

市来四郎が母に謝罪した話 

市来四郎は、斉彬に抜擢され集成館事業に携わったほどの有能な人材であり、生麦事件以来の攘夷派の熱狂には苦々しい思いを抱いていた開明的な思想の持ち主であった。しかし、その市来ですら、イギリスが砲撃したとしても市街地にまで被害が及ぶとは想定していなかったようで、開戦の前々夜、母が戦争になるから逃げなければいけないというのに対して、「どんな大砲でもここまで来る気遣いはない」と言い聞かせていた。ところがいざ戦端が開かれると、軍艦の航路から二十町(約2キロ)離た市街地にも被弾したので、母からいじめられて市来は謝罪しなければならなかった。

 奈良原家に落ちた砲弾

それでその着弾した場所は、市来の家から二町(約220メートル)しか離れていなかった。しかもそれは偶然、生麦事件でリチャードソンを斬った奈良原清*1の家に当たったのだという。砲弾は奈良原の家に飛来して小座敷の軒を打ち壊し、さらに隣の質屋の蔵を壊した。それを目撃した婦女子は、「生麦で英人を殺した人だから、その祟りでそこに丸が来たのであろう」と言ったという。偶然ではあったが、英艦の砲弾が奈良原の家に直撃した可笑しな話として市来は語っている。

開明の刺激薬となった薩英戦争

 このような市来の話を聞いたあと、寺師宗徳*2は当時を回顧して、ある策士が英艦を顛覆させる策があると言い、水を入れた大きな樽を流して英艦に引きあげさせれば桶(?)が浮くから上の船が引っくり返るであろう、と主張したことを語っている。この策が荒唐無稽であることは言うまでもないが、これは当時の西洋文明に対する認識がその程度であったことを物語っている。それで市来四郎は、「此の戦争は今にして考へると、大損亡は無論、馬鹿な戦争と人は見もしましせう、私も一寸はさう思ひますけれども、此の事は大変開明の刺激薬だと考えます、夫れからして一般の思想が進んだのでございます」と、無謀な戦争であったが攘夷家を啓蒙するためには意義があるものだったと述べている。

 

たとえば薩英戦争前の大久保利通「真の攘夷家」で外国人といえば唾を吐く様であったらしく、中山中左衛門とともにスイカ売り(果物売り)の策などをたてていた。そのことは前回の記事でも軽く触れたとおりである。しかしこの戦争の結果に懲々して、和睦せねばならぬという意見に変わったという。そういえば以前記事にした渡辺国武の話にも、大久保が30歳前後*3のころを回顧して次のような教訓を垂れたことがあったと紹介した。

 『……私なども君の年頃には随分詭激突飛なことをやったものである。人は途方もないところで、途方もないことを云わるゝものである。

 私が薩摩の藩庁に出仕していた頃、英国の軍艦がやって来たので、それを偵察するために倉の屋根に上って、見ている中に、雨上がりで瓦に滑って転んだところが、大久保は平生詭激な議論はやかましくするが英国の軍艦を見て腰をぬかしたなどと評判せられて、大いに迷惑したことがある。何事も深沈重厚、県民の依頼心を一身に集めるように心がけねばならぬ。それが政治の秘訣である。君のためにはよい修業である』

——『甲東逸話』

 

これを読んでもわかるように『詭激突飛』な議論をする大久保も先進国の文明の前に屈しなければならなかった。大久保にかぎらず当時の藩政にあたっていた要路者の国際情勢に関する知識が乏しく、またそのために推測が甘く、このような滑稽な役割を演じなければいけなくなったようである。

 

出典:『史談会速記録 合本2』「第11輯 文久三年七月鹿児島に於て英船と戦争の事実附鹿児島に於て戦争と決し準備を設けたりし事」

 

*1:奈良原喜左衛門。奈良原繁の兄。下手人については諸説あり

*2:市来四郎の甥。市来とともに史談会を運営。

*3:薩英戦争のころ大久保利通は34歳

薩英戦争前の薩摩側の奇襲作戦

文久2年8月21日、生麦事件が起きた。これは大名行列の前を騎乗したまま横切ろうとしたイギリス人数名を衛士が斬りつけ、そのイギリス人のうちの一人リチャードソンが奈良原清*1によって斬殺された事件である。

イギリス政府は、幕府に謝罪書と賠償金10万ポンド、薩摩藩に下手人の逮捕処分と慰謝料2万5000ポンドを要求した。幕府はその要求に応じたが、薩摩藩は拒絶。そのため生麦事件から10ヶ月経った文久3年6月27日、英艦七隻が鹿児島湾に侵入した。無論これは戦争を目的としたものではなく、交渉を有利にすすめるための威嚇にすぎなかったが、英艦の戦備は当時攘夷の熱狂にとりつかれていた薩摩藩士は大いに刺激した。

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後年の市来四郎の談話によれば、このとき奈良原清や海江田信義などは刺客を用いることを主張したらしく、また当時、薩摩藩政府中枢にいた中山中左衛門や大久保利通が「真の攘夷派」であったこともあり、刺客を用いる策が決行されることになったという。

 

イギリス人を上陸させて刺殺する計画

最初に実行されたのは、イギリス人を上陸させて刺殺する計画だった。そこで賠償問題で交渉しようとしたイギリス側に「国守は霧島の温泉にいって居る」と伝え、重大な事件であるため会議は長引くであろうから、「往復十日ばかり経たなくては返答はできない」と交渉にかなりの日数がかかることを告げた。距離的にそれほどの日数がかかることはありえない、とイギリス側は地理上から論じて訝しんだが、どうにか誤魔化して、ともかく日数がかかる、それでその間退屈であろうから客舎で歓待する、ということをイギリス側に提案した。しかしイギリス側はこれを、「決して退屈ではない」と拒絶。そのため第一の計画は頓挫することになった。

 

スイカ売りに扮した抜刀隊

 

第一の策が失敗に終わり、次に計画されたのは「スイカ売り」の策であった。これは奈良原が発議し、小松帯刀大久保利通、中山中左衛門に迫ったものだった。久光は「寧ろ堂々と戦うがよい、戦って勝敗を決するがよい、そんな卑劣なことを致さずともよかろう」とこの策に反対だったが、中山や大久保が強く主張したため実行に移された。そこで人員を募集すると80人ほど集まり、その人々を七艘の小舟に乗り込んで、スイカや桃などの果物を載せてイギリスの軍艦に売りこみに行った。果物売りに変装した人々のなかには西郷従道大山巌東郷平八郎などもおり、全員が刀を差していた。軍艦に乗り込んだら長官の部屋に斬り込み、その後軍艦を乗っ取り、それに成功したら大砲を放って合図を送る作戦だった。

この七艘のうち、奈良原が乗っていた一艘は乗艦することができたが、甲板より先に進むことは許可されなかったため長官の部屋には行けなかった。それで甲板のうえで斬り込むわけにもいかず、むなしく引き取ったという。

 

後日、イギリスの新聞には「商人が乗ってきたが、その顔色を見るといずれも殺気を含んで、何か事を為さんと察して船に載せず、船内にも通さなかった」と載っていたらしく、市来四郎は「相手はその顔つきをみて察していたと見える」と語っている。

 

出典:『史談会速記録合本4』「第20輯 故薩摩藩士中山中左衛門君の国事鞅掌の来歴附二十九話」、

*1:喜左衛門。下手人については諸説あり

示現流について——東郷実政談(史談会速記録)

今回は『史談会速記録 合本22』の第151輯「東郷実政君の示現流剣法の由来附十六話」から、示現流にかかわる逸話を紹介したい。

 

    東郷実政君略履歴

東郷実政君は通称六郎兵衛鹿児島県出身にして祖先以来旧藩主島津侯に仕へ世々示現流の武術師範たり君少壮家流の技に達し長して藩内子弟を教導し藩職を歴事して勤労多し維新の戦役に当たっては一隊の監軍となり越後口に向かはれ戦後江戸に凱戦せられ朝兵の指揮を掌とられしか後帰国あり尋て朝に仕へ警察の職を歴任せらるゝこと十数年に垂んとす又鹿児島警察部長に進み幾もなく官を辞せられ今健在年六十七

 島津家久示現流

示現流は、古くは”自顕流”と書いていたが島津家久(初代藩主)によって”示現流”に改められた。家久が初名である忠恒を名乗っていたころ、文之和尚に筆を執らせたといわれる文書があり、それによれば「示現神通力」からとったとしている。改名させた詳しい事情についてはわからないが、あるいは白洲正子氏が書かれたつぎの文章のような理由があったのかもしれない。

 ……示現流は、はじめ「自顕流」といった。桃山時代に京都の寺でひそかに行われていた剣道で、薩摩藩士の東郷重位が苦心惨憺して鹿児島に伝えた流儀である。

 ところが血の気の多い兵児二才の間では、「自顕」を自分流に解釈して、前後の見境いもなく自分を顕せばいいのだろうと、勝手気ままな振る舞いをするようになった。もともと受ける太刀はなく、斬る太刀だけが命の剣道のことだから、「気ちがいに刃物」もいいところで、しめしがつかなくなったのである。

 そこで当時の藩主、島津家久が、大龍寺の文之和尚と相談して、重位に命じて「示現流」と名を改めることにした。これは観音経の中にある「示現神通力」からとったもので、神仏が此世に姿を現す意味である。家久自身が剣道の達人であったから、勢のいい若武者たちもいうことを聞いたに違いない。——白洲正子著『白洲正子自伝 

島津斉興と示現流

薩摩藩歴代藩主のなかで示現流を皆伝されたのは前出の島津家久と第10代藩主島津斉興のみだった。島津斉興は17歳のとき、江戸高輪藩邸で東郷六郎兵衛実守のもとで示現流の稽古をし、嘉永元年になって「実守の兄東郷藤兵衛実位より御皆伝までなされた」。そうしたことがあり示現流を「大変御手厚く御取り扱」い、示現流を御流儀と称えるようにと仰せられたという。ただしこれは斉興一代限りのことであった。とはいえ東郷家は、藩祖家久を指南したことなどもあり、第8代藩主重豪の時代に稽古場(演武館)が造られたとき、東郷家のみ稽古場に部屋があり、他流のものはその部屋に入ることは許されなかった。このように藩から特別の待遇を受けていたことは事実だったという。

 

 斉彬と示現流

斉彬については、「何か(武術を)為されたらうがぞんしませぬが示現流は為されませぬ」と示現流の稽古はしなかった東郷実政は述べている。しかし、芳即正氏の『島津斉彬』によれば示現流も学んだとある。

文政五年ごろから種子島六郎に鏡知流槍術を、同七年十六歳のときから剣法を柳生但馬守俊章に学んだが、二十五歳のとき柳生門をことわり薩摩藩独特の示現流を学んだ。——芳即正著『島津斉彬 (人物叢書)

 あるいは藩主になってからは示現流の稽古はしなかったということなのだろうか。ともかく斉興のように皆伝とはならずとも、臨時に二ノ丸の稽古場に子弟を召集して稽古を見分したので、人気(じんき)が余程奮ったという(『史談速記録151輯』『史談速記録153輯』)。

島津斉彬 (人物叢書)

 

 

稽古の心得

 

寺師宗徳が稽古の心得あるいは流派の眼目を問えば、東郷実政はつぎのようにこたえる。

 それを言って見れば逆なるものを忌む順なるものを養ふ主意で、逆抜きを忌む逆抜を忌むと云ふ訳は逆抜は太刀が夫れ限りに死するが故である、順にやらねばならぬ、例へば人間の得てなるものは何か打つ事が得てなり三才の童子に打てといへば直きに振上げて打つ、これは天然の打ち方である、それを養成して強く早く打つ体も天然の体でなくてはならぬ、体を初めから作らす人間か突き立つた儘で宜いのである、天然の事を主として其宜い所を取つて養成すると云ふ主意である、面小手の流派とは主意を異にする、面小手の稽古は術を巧みにする、示現流は立てば盤石の如く、来る者は撃つ敵は幾らでも構はぬ術で相手を選ばぬ法であります、

またつぎのようにも述べる。 

立合いはしても仕合と云って術を試して見ることはしませぬ、一旦立ち合ふ時は死生を期してやる、刀の仕合いは撃殺すより他ない決して術を試し合ふことはせぬ規定でありました、 

 

以上は『史談会速記録 合本22』の内容をまとめたものであるが、私は示現流について詳しくないので間違っているところもあるかもしれない。それなので本記事は『史談会速記録』の備忘録と位置づけ、さらに詳しい経歴や文化を知ることができたら後日改めて記事にしたいと思う。

 

西郷隆盛と折田要蔵の乱闘——渋谷直武談(史談会速記録)

近世日本国民史』のなかで徳富蘇峰は、西郷隆盛が高潔な人格とユーモラスな人柄を併せ持っていたこと述べ、くわえて「西郷はことさら恭謙、士に下って、もって人心を収攬せんことを力(つと)めた王莽一流の偽君子ではない。彼はその人の悪事に対しては、もしくはその人の過失に対しては、これを詰責するに決して憚らなかったが、自ら大人として他に誇るがごとき態度は、いかなる場合でもなかった」と記している。

その例証となるような逸話を渋谷直武*1が語っているので紹介したい。

近世日本国民史 明治三傑 西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允 (講談社学術文庫)

流刑地へ西郷を迎えにいった渋谷直武

渋谷直武の語るところでは、「西郷が大島へ流されて居りました時、吉井幸助(友実)使として島へ迎えに往きました、その比(ころ)私は諸生中でありましたが一緒に往きました」*2とある。”大島へ”とあるが、村田新八も一緒に連れ帰ったことや折田が大坂にいたことを考えれば元治元年のことになるので正しくは沖永良部島であろう。鹿児島に戻る途中、奄美大島に三泊四日滞在しているので記憶違いが生じているのかもしれない。このとき西郷は「今更帰れと云ってもいやだ」と吉井に言い、焼酎で酔わせて強引に連れ帰ろうとするほど当事者は苦労したが、酔いが醒めると口論になり、そこで吉井は「貴様が居なけりゃ治まらぬ、悪かったから帰って呉れ」と頻りに宥め、同時に喜界島*3に流されていた村田新八も迎えにいって鹿児島に戻ることができた。それからすぐに藩命がくだって、大阪へむかった。

折田要蔵の行為に怒る

その頃大阪には鹿児島出身の折田要蔵(年秀)がいた。「西洋の事に力を用い随分大法螺吹きの人でありましたが、以前江戸へ来て大砲の事などいくらか心得て居る、そこで御家老中方へ吹込み大阪の台場拵えの事などうまく話し込みて丁度その頃台場拵えの役人を命ぜられ旗本に召出され大阪に立派なる家を構え旗本然として居られ」た、と渋谷は折田の人物について述べている。

『神戸市史』の「近世人物列伝 折田年秀」での記述はつぎのとおり。

 久光摂海防備を厳にすべきことを幕府に建議する所あるや、年秀は久光の命によりて大阪に下り、摂海防備の設計を立て、砲台十四箇所一箇所凡六万両大砲八百十門一門凡千両を造り、尚其他城堡築造の要あることを復命す。同年(元治元年)二月幕府は年秀に命ずるに摂海防禦台場築造掛を以てし、百人扶持を給したれば、年秀大坂土佐堀に僑居し砲台築造の指揮をなす。

 大坂へむかう船のなかで渋谷が折田のことを話すと、「彼れ怪しからん事をなすかな今に往って咽喉でも絞めてやろう」と西郷は怒ったという。

大坂での乱闘 

大坂に着船すると西郷はすぐにでかけた。一方渋谷は、大山弥助(巌)や西郷慎吾(従道)などと虎屋(宿屋)へ行き、「もし折田方にて今晩何事かあったら知らせ」よ、と伝える。するとその日の夜九時か十時頃、サア来てくれ、との使いが来た。現場に到着してみると暗闇のなかで組み討ちがはじまっている。渋谷が燈をつけると、西郷は”本当に”折田の咽喉を押さえ、折田は西郷の腕を噛み、二人とも酔っていたためかなり烈しい乱闘となっていて茶碗や皿が散乱していた。そこで居合わせた者全員で二人を引き離し、別々の部屋に休ませることで騒ぎは収まった。翌朝、どうなっているかと渋谷が様子を見にいくと、二人は一緒に茶を飲んでいて、折田が「どうも咽喉が痛くてたまらん」といえば、西郷は「貴様は腕を噛んだじゃないか」と笑い話になっていたという。

 

出典:『史談会速記録 合本22』

*1:『史談会速記録(第百五十一輯)』

*2:原文変体仮名、以下同様

*3:原文では村田新八沖永良部島に流されていたとなっている。これも記憶違いだろう。