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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

西郷入水に関する吉井友実の回想——西郷入水後の大久保利通について

前回、前々回に引き続いて西郷入水騒動と大久保利通について。今回はまず、小河一敏が筆録した吉井友実の回想を紹介したい。

 

吉井友実が語る入水後の西郷

西郷は16日の午後四時頃、人々に介抱されながら家に帰った。ただ眠るが如き状態で無言だったが、夜の九時頃になり尿意をもよおすと訴え、吉井に扶けられて尿をし、ふたたび褥(しとね)に戻ると、「己の紙入れを見よ、月照の辞世あるべし」と言ったので、吉井が濡れた紙入れをひらくと、月照の辞世の歌があった。

 

以上は『明烏』にある吉井の回想を読みやすくするため現代語表記にし、また原文の意味を損なわない程度に簡略な表現に直したものである。吉井によれば人々に介抱されながら帰ったとあるが、後述する平野国臣の話では駕籠となっており、春山育次郎も駕籠で運ばれた説をとっていることから正しくは駕籠で運ばれたのだと思われる。西郷の紙入れにあったという月照の辞世はつぎのとおり。

 曇りなき心の月の薩摩潟沖の波間に頓て入ぬる
 大君の為めには何か惜からん薩摩の瀬戸に身は沈むとも

 

このように吉井が入水後の情況として語っているのは西郷帰宅後のことのみで、入水事件の現場に駆けつけたという話はない。それなのでやはり前記事でみてきたとおり同志が現場に駆けつけ西郷の蘇生を見届けた説は考えられない。ただ、同書におさめられている平野国臣の話では(花倉で蘇生した)西郷は一族共来り駕籠にてつれ帰りぬ」とあって、阪口周右衛門とともに船で鹿児島に戻ったことや町会所で保護されていたことについては言及していない。そのため一族が入水現場に来て、駕籠で家まで運んだように捉えられ、だとすれば同志も現場に駆けつけたと想像するに無理はなく、かくして大久保が花倉で西郷の蘇生を知ったという訛伝を生じさせたと考えられる。それで家老・新納久仰の日記、阪口周右衛門の具状書が発見されてなかった当時としては、大久保が花倉で西郷を見たことが通説となったのだろう。このことは前回述べたことであるのでここではこれ以上立ち入らないことにする。

 

 

西郷帰宅後の大久保

吉井友実の話をみてわかるように、西郷帰宅後は同志の面々が訪れ看病していたようである。『月照物語』にある家老新納久仰の日記でも、

三助(西郷)事ハ宿元へ差返シ、切角養生為致候様、矢張息モ有之追々可致快気模様ニ付、猶又念ヲ入候様親族共へ申達シ為致候。

 ——春山育次郎『月照物語』

 とあり、入念に看病するように命じたことがわかる。『月照物語』では、大久保利通、吉井友実、伊地知正治、海江田信義(有村俊斎)、税所篤、森山新蔵等の諸同志が帰宅後の西郷を看病したとしている。あるいは、前々回引用した『甲東先生逸話』にある大久保の発言が実際にあったとすればこのときのことであろう。 

甲東がこの急報に接し驚いて馳けつけた時は、月照既に事切れ、南洲は幸に蘇生していた。同夜、直ちに南洲の家を訪れ、深くその純情を称え、且つ曰く、 「月照既に逝き、君独り生を全うすることが出来たのは決して偶然ではない。天が君を一層天下国家に尽くさせようと欲したからである。大に自重して軽挙する勿れ。……」と涙ながらの慰撫に、半ば醒めかかった南洲は勿論、家人もその友情に感激したとの事である。

——『甲東先生逸話』

 

 

 

西郷隆盛と大久保利通の友情——入水当時について横目役谷村の証言

 前回の記事で触れたように『大久保利通伝』や『甲東先生逸話』などでは、西郷の入水騒動を知った大久保利通が現場に急行したと叙述されている。

ところが 春山育次郎*1の記すところによれば、大久保あるいはその同志が現場に駆けつけた様子は書かれていない。当時、救命作業にあたったのは平野国臣と月照の下男重助、藩庁の命で同行していた阪口周右衛門、それと阪口により呼び集められた花倉の若者たちだったようで、同志はその場にはいない。

 

月照は「衣帯に勝(た)へぬやうな清僧」だったためそのまま息を引き取ってしまったが、強壮な西郷は意識こそ戻らないものの息を吹きかえした。そこで阪口は、月照の遺骸と西郷を船に乗せて鹿児島に戻り、藩に報告して指示を仰ぐ。阪口の報告を受けて藩庁はすぐさま評議をおこない、町会所に月照の遺骸と西郷の身柄を保管することを横目役谷村某に命じたという。

谷村の証言 

西郷・大久保派ではなかった谷村

その谷村の語るところにより、当初大久保は西郷がどのような状態にあるか知らず、憂慮していたことが明らかにされている。そのまえに注目しておきたいことは谷村が大久保について物語った経緯である。春山曰く、谷村の出自と経歴は西郷・大久保の朋友子弟とは異なることもあり、「一般多数の薩摩人の如く、付和雷同して此の二個の巨人を随喜崇拝する」ような人ではなく、自身が関与し認識した長所と美点を「公平な態度」で承認することを惜しまなかったので、余談として西郷・大久保の人物について訊ねたところ、大久保の友情に感激したことを語ったとある。つまり西郷・大久保を敬慕するゆえの美談ではなく、目撃した事実をそのまま述べたものである。その谷村の話をまとめると次のようになる。

谷村を感動させた西郷と大久保の友情

前述したとおり横目役だった谷村は、藩庁に命じられ月照の遺骸と意識不明の西郷の身柄をあずかり町会所で保護していた。すると入水の噂を聞きつけた西郷の同志が駆けつけ、二人の容態をしきりに訊ね、あるいは姿を見せよと迫り、なかには暴言を放って罵るものまでいた。野津鎮雄にいたっては大刀を振り回して谷村に掴みかかろうという勢いであった。同志が憤激していた理由は、谷村が二つの棺を準備していたことから、藩庁が二人を殺したのだと疑惑を生じさせたためであった。しかし谷村は脅迫に屈せず、藩庁の命に従い、二人の生死については一切明かさなかった。

それから同志のうちで最も遅れて訪ねてきたのが大久保だった。当時、閑散の身であり「声望なお微々として振るはざる」大久保だったが、その態度と言辞は非常に鄭重で谷村と会うなり、「西郷が意外の事変を生じ、政庁はじめ当局の人を煩わすの多大なるを深く謝し」、それから西郷の生死について訊ねた。どのようなことがあっても守秘するつもりだった谷村も、憂慮を浮かべた面持ちの大久保を見て、「到底黙しておるに忍びない情を生じ」る。そして、「大久保の態度辞令の沈重にして礼あるを知り、こんな人には事実を語って聞かせても不都合はなかろうと思い」、西郷は昏睡状態であるものの命に別状はない、と告げた。すると大久保は「たちまち喜色満顔ただ一語そうですかと言ったきり、喜び極まって物言うことも叶わず、涙潸々(さんさん)として頬を流れ落ちるばかり」であった。それを見た谷村は同情を禁じえず、ひそかに西郷のいる部屋へ案内する。西郷を見た大久保は、息があることを近くで確かめると「悲喜の情に堪えざるものの如く」、落涙しながら西郷の顔を眺め、すこしのあいだ言葉はなく、ややあってから谷村に厚く礼を述べ、後のことをよく頼んで辞去した。

春山育次郎の著作について

私はこのような逸話があることを知らなかったので、大久保利通に関する文献にあたって確証を得ようと試みたものの、事件当時の大久保の動向を詳しく述べたものが見当たらない(個人で入手できる資料に限りがあり勉強不足であることは否定できないけれども)。当時の事情が不明である最大の理由は、この頃の大久保の日記が現存していないためだと思う。谷村純孝についても、「警部郡長等の職を奉じ、日州の地方に勤め、顕達せずして世を終わった人です」という春山の記述以外のことはわからない。つまり当事者側の記録による裏付けはない。それでも私は、谷村の話は事実だと思う。

 

なぜならば春山育次郎の『月照物語』は、『大久保利通伝』の出版当時(明治43年)発見されていなかった史料を参照して執筆しているからである。そのなかでも新納久仰の日記、「阪口周(用)右衛門具状書」は入水事件を記録した貴重な史料となっている。

 

そのうえ春山育次郎は、『月照物語』が出版された翌年(昭和4年)、『平野国臣伝』を上梓していて、その序文を手がけた勝田孫弥は、「友人春山育次郎君、久しく力を維新史の攻究に用ひ、自ら一家の見解あり。(中略)久しく晦蒙して人に知らるゝことなかりしもの、此書を待って始めて鮮明となりたる所極めて多し」と述べ、いわば『大久保利通伝』の著者からのお墨付きをもらっている。もっとも、谷村の話は平野国臣とは関わりがないため省かれているが、西郷入水後の記述は大部分が『月照物語』と重複しているので、『大久保利通伝』よりも当時の事情について詳しいものとみて間違いないのだろう。

 

しかし松方正義、税所篤といった当時の事情に詳しいであろう人物が『大久保利通伝』を監修していることを考えると事実無根の説をとったとは考えられない。それなのであるいは大久保が入水の噂を聞いて現場に急行したことも事実で、すでに阪口らが出帆したあとで西郷を見ること叶わず、鹿児島に戻った可能性も否めない。そうだとすると同志のうちでもっとも遅れて町会所を訪れたのも納得できる。なおかつ大久保は、後年兵庫で西郷と刺しちがえようとしたことすら人に知らせなかったのだから(唯一、本田親雄にのみ語っていた)、町会所で西郷を見たことは黙っていたと考えられる。谷村の立場もあるし、それにその日の夕方には西郷は自宅に戻されたので、同志に語る必要はなかったのだろう。むろん、これはただの推測にすぎないが。いずれにしても谷村の話はありえることで、吉井友実の懐旧談とも矛盾しない。その吉井の話については次回みてみようとおもう。

*1:『月照物語』『平野国臣伝』の著者

西郷入水前後の大久保利通

斉彬歿後の薩藩の形勢

安政5年7月16日、島津斉彬が没すると藩内の形勢は一変して、斉彬の事業に従事していたものたちは免職または転役となり、御小姓組はその大半が除かれる「俗論蜂起」の時代となった。いわゆる「順聖公崩れ」である。その影響で大久保利通も御徒目付の職を免ぜられ、閑散の身となっていた。

西郷の帰藩と有志の奔走

俗論党が権勢を振るっていた安政5年10月6日、それまで京都で活動していたが西郷隆盛が帰藩した。西郷は、禁闕を守護する義兵を挙げることと近衛家より依頼された月照の保護を藩庁に訴え、大久保もそのために「尽力奔走」していた*1

 

佐々木克氏の『幕末政治と薩摩藩』によれば、この頃から大久保と有志の面々が、「久光に面会できるよう、吉祥院から久光にお願いしてくれと、たびたび吉祥院のところに頼みにきた」と、吉祥院*2維新後に回顧した記録にあるという。このときの有志の面々が誠忠組の母体となる。大久保らの目的は義挙計画を久光に訴えるためであった。つまり久光はこの時(斉興在世中)すでに、斉彬の遺志(義挙)を継承する人物として大久保らに嘱目されていたようである。しかし久光は、面謁を断っている。

幕末政治と薩摩藩

 

月照の入薩と藩庁の処置

そうした運動のさなか西郷・大久保にとって予期せぬできごとが起こる。11月8日、平野国臣に伴われ月照が鹿児島に密入国、10日には鹿児島城下に到着したのである。しかも月照を追跡していた幕吏は、この入国を探知し、福岡藩の捕吏を鹿児島城下に派遣する。

 

15日の午前、家老・新納久仰らの評議の結果、月照を日向方面に潜匿させ、捕吏には月照が立ち去ったと伝えることに決定した。そうして午後には月照の日向送りを即日決行せよ、との内命が西郷に伝えられる。西郷もその命に従うしかなく、深夜、納屋浜から出帆。その途中の大崎ヶ鼻沖で西郷と月照は抱き合って身を海に投じた。

 

入水直後の大久保

大久保利通伝』によれば、「初め、西郷が忍向(月照)を伴ひて海に航するや、利通は之を知らざりしが、偶、十六日の黎明に、此急報に接して大に驚き、直に馳せて磯に至れり」と、西郷入水の急報を受けて大久保が現場に駆けつけたことが簡略に記されている。また『甲東先生逸話』にはつぎのように書かれている。

 甲東がこの急報に接し驚いて馳けつけた時は、月照既に事切れ、南洲は幸に蘇生していた。同夜、直ちに南洲の家を訪れ、深くその純情を称え、且つ曰く、
「月照既に逝き、君独り生を全うすることが出来たのは決して偶然ではない。天が君を一層天下国家に尽くさせようと欲したからである。大に自重して軽挙する勿れ。……」と涙ながらの慰撫に、半ば醒めかかった南洲は勿論、家人もその友情に感激したとの事である。 

ところが、上のふたつとは異なる当時の様子を横目役だった谷村某(維新後、純孝)が春山育次郎に伝えている*3。すこし長くなったので谷村が語る大久保の友情と西郷の蘇生については次回述べたいと思う。

 

 

*1:勝田孫弥『大久保利通伝』

*2:住職乗願。税所篤の実兄

*3:『月照物語』

大久保利通と西郷従道——西郷清子談

『甲東逸話』に西郷従道の夫人・清子氏の談話がある。清子氏によれば大久保利通西郷従道の関係は次のとおりだったという。

西郷従道は大久保サンには実に容易ならぬ引立てを受け、可愛がられていました。わたくしが嫁入りしましたときなどでも、西郷の衣装万端をお世話になり、その後もほとんど毎日のようにお宅に参っておりました。わたくしなどまでも何くれと教えてくだされ、いつも御注意を受けて居りました。

 

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親切な大久保公

従道侯は無頓着なために、ときおり大西郷の機嫌を損ねてしまうことがあった。あるとき従道侯が乗馬したまま、大久保公と大西郷の前を横切ったことがあり、大西郷は「生意気である」と立腹した。そこで大久保公は、従道侯を呼び出し、大西郷に謝罪するよう命じた。

終始陰になり日向になって、親切にしてくださいましたので、まるで実の兄よりも大久保サンの方が親しく、ほとんど骨肉の兄同様に思って居りました。

 

当時、従道侯の邸宅(永田町)と大久保公の邸宅(三年町)は近かったので、従道侯が陸軍省から帰る途中、大久保邸によって食事することが多かった。また大久保家の方から料理が贈くられてくることもあり、「とても肉親の兄弟でもあんなに親切には出来ないほどでありました」という。

 

そして大久保公は従道夫人のことも可愛がり「お清どん」、「お前、お前」などと呼び、夫人の方では「叔父様、叔父様」などと呼んでいた。

 

従道侯が台湾出征中のとき長男が生まれたのだが、大久保公は「私が名を付けてやる」と、『ホルモサ』と付けようとした。花の島という意味だった。しかし、清子の父得能良介がすでに命名していたため勇熊となった。従道侯の目黒の別荘に『掬水』と命名したのも大久保公だった。

 

大西郷の死と大久保公の死

西南戦争中のある日、大久保公から一通の手紙が送られてきた。手紙に目を通した従道侯はすぐに機嫌が変わり、長大息して黙り込んだ。そのとき訪れていた市来政方が話しかけても返事がなかった。その日の夕食がすむと清子氏にむかって、
「これこれ、今日は鹿児島の城山が落ちた。兄も最期を遂げた」と告げて号泣した。さらに「自分は今日限りだ。今日限り官職も罷めるから、荷物を片づけ、明日から目黒の宅に送れ」と命じて引篭もってしまったという。

 

翌日、来訪した大久保公は辞職を引き止めようとした。しかし従道侯は「私は如何なる事でもあなたの言葉には背きませぬが、この事ばかりは、お許しくださいますように」と聞き入れない。仕方がなくその日は大久保公も帰ったが、一両日してからまた訪れ、
「未だ世の中も全く治まった訳ではない。何時何処に乱が起こらぬとも限らぬ。今お前が引き込んでは宜しくない。私に一切を任せ、是非出勤せよ」と勧め、「その代わり機会を見て暫く外国に出してやる。公使に就職するように尽力する」と懇切に説いたので、従道侯も承知した。その後、イタリア全権公使に命じられる。

従道侯は、「今度自分は外国に行けば、モウ日本に帰らず、外国の人になって仕舞う」と言っていた。しかし大久保公が暗殺されたことで従道侯の外国行きも白紙になってしまった。

 

大久保公暗殺当時の従道侯について「あの頃西郷は、ほんとうに泣き暮らして居りました」といい、夫人もまた「大久保さんの御親切を思い出しますと、いつも涙の種となるのであります」と語っている。

 

 

大久保利通と天竜川の治水事業——金原明善の熱誠と甲東の果断

古くから「暴れ天竜」と恐れられていた天竜川は、嘉永3年から明治元年までの19年の間に堤が切れたことが5度もあった。なかでも明治元(慶応4)年の洪水は最も惨害を極め、沿岸の村落や耕地をのみこみ、人家一万余戸に被害をおよぼした。

 

そこで安間村*1にいた金原明善(きんぱら めいぜん)は、沿岸住民とのあいだに協力会社を設立し、治水事業に尽力していた。ところが明治10年に県の治水の予算が4万円に縮小。静岡県には大川巨河が多いため、天竜川の治水事業には1万円しか割り当てられなくなった。

 

これまで年間2万6千円の費用がかかっていた事業である。このままでは工事を中止しなければいけない。明善翁は「斃れて止む」との決心を住民に約束して治河協力会社を設立していた。むろん翁自身は天竜川のために斃れることは差しつかえない。だが、その後はだれが天竜川の水防に取り組み住民を救うのか。それまで幾度となく県庁に哀願していた翁は、10年の暮れ頃になりある覚悟決めた。

 

「非常の事業を全うするには、非常の決心をせねばならぬ。お上も恃むに足らず、河下の人間も力とするに足らぬうえ、ただ頼むは自己の熱誠のみであるここで徒らに日を送ることは、餓死を待つ同様である」

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12月中旬。表向きは博覧会見物として妻・玉城を連れて上京する。翁はまず、本郷の真光寺にむかい川村正平を訪ねた。川村は半年ほどまえ太政官の命で地方を調査し、翁の治水にかける熱意に感服した人物であった。

 

事情を聴いた川村は、宮内侍補の土方久元を紹介するといい、土方家まで同道した。土方も翁の熱意にうたれ、吉井友実から大久保内務卿に伝えた。

 

当時、大久保公は多忙であったが「そういうことならば12月26日に霞ヶ関の官舎で面会する。同日午前出頭せよ」と命じた。

 

こうして12月26日、明善翁はこれまでの事情を一通り説明したあと、
「政府として人民保護の処置を尽くさなければ、沿岸の土地住民は滅亡するほかない」

と陳述した。

 

するとそれまで黙していた大久保公は、
「われは天竜川の内務卿にあらず、天下の内務卿である。天竜川の沿川における人民の窮状はまことに気の毒ではあるが、天竜川の沿川だけを救済するわけには参らぬ」
と拒絶。


明善翁は冷水を浴びせられたようであったがどうにか気を取り直し力を込めて訴えた。

「この上は致し方ありませぬ。私には非常の大決心がありますが、それならば御聞き届け下さるでありましょうか」

 

「非常の決心とは如何なる意味であるか」

 

「我家の先祖代々所持しております家産をすべて献納して工事費を償いますから、不足額の補助を願いたい」

 

「その金はどのくらいある」

 

「よく調査しなければわかりませんが、家産全部を売却すれば、四万円ほどはあろうと信じます」

 

この決心を聞いても大久保公は、
「一応考えてみよう。今日はまずこれにて帰ってよろしい」
としか言わなかった。

 

こうして明善翁は川村正平の家へ戻った。翁は、おそらく駄目であろう、生きては郷里に帰られぬ、神も仏も我が熱誠を見てはくれぬのか、と失望していた。

 

翌朝、上京中の静岡県令大迫貞清から、翁に出頭せよとの命があった。江戸払いでも受けるのであろう、と大迫県令の宿所を訪れると、
「昨日、君は天竜川の沿川の状態について、内務卿に詳細陳情したということであるが、内務卿からの命が下って、さっそく県庁にあてて願書を差し出すべき旨の沙汰があった。君の願意は叶ったのである」
と意外なことを告げられる。

 

これを聞いて翁は涙を流して喜んだとのことである。それから旅館に戻り、玉城に「お上のため先祖伝来の家財をすべて差し出す。財産は一切残らない」と告げた。

さらに、これからは自活のために月給取りになる、と言い、それでも天竜川の治水が成功しないときには、「お前と共に樽の中へ入って、天竜川の河底へ埋めてもらう。そうして命のあるあいだ鉦を叩いて、天竜川に厚意を持つ者を守護し、天竜川に反対する者をとり殺す。最後の手段はこれしかあるまい」と玉城に言った。

 

家産献納のことを知った山岡鉄舟は、
「お前、そんなことをしてどうする。それほどにせずとも法の立てようがあるではないか」

と言うと、明善翁は、
「私は借金のない車夫になった心でやります。世には借金を持った車夫さえあるではありませんか」
と答えたという。

 

そうして玉城を東京に残したまま、郷里に帰り、治河協力会社で家産公売の手続きをした。そして『財産献納願書』を区長や治河協力会社の社員ら9名が連署して11年の3月、県庁に提出。


ところが県庁では、一家の全財産を受けいれるわけにはいかない、として一部を明善翁の生計に差しつかえないように下げ戻し、残りを治水事業に出金させた。さらに治水工事のために年間2万3千円の補助金を下付することが許可された。こうして翁の素志が貫徹されたのであった。

 

後年明善翁明善は次のように人に語ったという。

大久保内務卿は大迫県令に対し、若し明善翁より全財産を提供するにおいては、斯々の条件を付して指令を与えるべしとの命を、予め下し置かれたものではないかと思われる。内務卿は霞ヶ関において、私の長い歎願を黙して聴いておられたが、国家多事の際国政の上からいえば勿論大事件とはいえない一小部分の問題であって、所詮採用は駄目だと諦めていたが、わずかに一日の詮議を以て、斯くまでに徹底したる裁許を仰いだことは感歎の外はない。——勝田孫弥『甲東逸話』

そして『甲東逸話』の著者は以下のように記している。

斯の如く、甲東の決断で明善翁は願意を遂げ、その面目も立ち、初めて蘇生の思をしたのである。而して天竜川の治水の基礎、植林堤防の方法も備わり、沿川における数万の人民のために生命財産が全く保護されるようになったのは、実に甲東の賜物であったのである。
 後年伊藤博文が内務卿たりしとき、やはり天竜川の治水問題で、内務省に詮議を願い出たことがあった。伊藤内務卿を初め、各局課に至るまで、なかなか議論家が多く、法律の解釈、規則の見解と、荏苒日を重ね、遂に三ヶ月もかかったのである。
 同じく治水の問題で、伊藤内務卿の時代は三ヶ月を費やし、大久保内務卿の時にはわずかに一日にて処断された。明善翁は一日と三ヶ月とを比較して大久保内務卿の手腕力量に鑑み、「たとい時代の推移はあるにせよ、その人物の等差も隔たりがあるものである。」というていた————勝田孫弥『甲東逸話』

 参考 勝田孫弥『甲東逸話』 静岡県知事官房編『金原明善と其事業』 渡辺霞亭『金原明善翁』

*1:現・浜松市